38th Gappepr パク・ヨンジュン
合計8か月のギャップイヤー
退職後、ネパールのために砂漠マラソンを完走

こんにちは。『ネパールのために砂漠を走った青年』パク・ヨンジュンと申します。普通の公務員だった私は、2015年の夏に勤めていた職場を辞めてから、現在まで約8か月のギャップイヤーを過ごしています。ギャップイヤー中に「#I’M GOING TO NEPAL」というソーシャルファンディングプロジェクトを企画・運営し、ネパール地震被災者支援のための寄付金を集めるために、チリの『アタカマ・クロッシング(Atacama Crossing)』砂漠マラソンを完走しました。
30歳を前に決行した『退職』という冒険
私は子どもの頃から『模範生』でした。熱心に勉強し、そこそこの大学に入り、毎日を忙しく過ごしていわゆる良い『スペック』を積みました。そのおかげで大学を卒業する前に希望する会社に内定を得ました。やりたい仕事ができることを幸せに感じ、仕事も身を削るほど一生懸命に働きました。
しかし現実は甘くありませんでした。私の『努力』とは別に、見せかけの業務慣行、非効率な手続き、さまざまな儀礼や長時間労働が当たり前とされる韓国特有の職場のあり方には非常に失望しました。なぜそれをやらなければならないのか理解できない仕事に、深夜まで拘束される日々が続きました。懸命に生き、懸命に努力しているのに幸せではありませんでした。人生への混乱と憂鬱。残業のように多かった数え切れない悩みたち。苦労して入った職場だっただけに、退職は私にとって本当に大きな冒険でした。そうして3年目だった昨年の夏、勇気を出しました。しばらくの間区切りをつけて、別の未来を描いてみようと決めたのです。
実は退職する時、何をすべきか心に決めて辞めたわけではありませんでした。あまりに疲れており自信を大きく失っていたため、具体的な計画はありませんでした。ただ、30代になる前に一生後悔しないような素晴らしい挑戦をしてみたいと思っていました。
ネパールを愛した青年、ネパールのために走ることを決意する
昨年4月、規模7.8の大地震がネパールを襲ったことを覚えていますか?私は2010年に海外ボランティアとしてネパールで10か月間活動したことがあります。期待と不安を抱えて到着したネパール。そこでは『ビジェイ(Vijay)』という名前で学校で働き、生徒を教え、孤児院のための教育プログラムを運営しました。だからこそ、地震はネパールを第二の故郷と考えてきた私にとって本当に胸の痛む悲劇でした。
退職してから1か月ほど経ったころ、ネパールのために何ができるか考えているときに『砂漠マラソン』が目に留まりました。2015年10月、チリのアタカマ砂漠で『アタカマ・クロッシング(Atacama Crossing)』が開催されるという知らせをインターネットで見つけたのです。砂漠で外部の支援なしに250kmを完走しなければならないウルトラマラソン。実は私が以前から夢見ていた挑戦の一つでした。その時ふと浮かんだ考え。『ネパールのために極限の砂漠マラソンに挑戦し、完走を応援してくれる寄付金を集めて地震被災地に寄付しよう!』まさに『ネパールのために砂漠を走る青年』が誕生した瞬間でした。
「ソーシャルファンディングプロジェクト #I’M GOING TO NEPAL の誕生」
2015年7月末、小さなアイデアは有能な友人たちと共に考えながら徐々に発展していきました。企画、コンテンツ、広報に精通した元職場の同僚とチームを組み、私個人の砂漠マラソン挑戦と「ネパール地震被害支援の寄付金」をどのように結びつけるかを一緒に協議し検討しました。実際にネパールへの支援金を集めることも重要でしたが、それ以前に資金をどの目的でどこに寄付するかを決めることも難しい問題でした。適切な寄付先兼パートナーを見つけるために、退職前に力を尽くして提案書を作成し、同僚のフィードバックを受けて何度も修正した上で、プロジェクトに関心を持ちそうな国内のソーシャルビジネスやNGOなどに送りました。
そして間もなく、ネパールでフェアトレードのコーヒー事業を展開している「フェアトレード・アルムダウンコーヒー」が私たちの意向に賛同し、<#I’M GOING TO NEPAL>プロジェクトが始まりました。 フェアトレード・アルムダウンコーヒーが自社のインフラを使ってファンディングを担当してくださることになり、私は集まった支援金をネパールのコーヒー生産地である「シンドゥパルチョク(Shindupalchok)」の地震被害農家に寄付することにしました。支援のリワード(reward)としてネパールのフェアトレードコーヒーを提供するなど、単なる寄付にとどまらず、支援してくださった方々に「ネパール産コーヒー」を知ってもらい、持続可能な支援につなげられる点が特に良いと思いました。実務を担当する係の皆さんも、私のストーリーや目指す価値をよく理解してくれていました。やがてフェイスブックページ(www.facebook.com/imgoing2nepal)が オープンし、広報が始まりました。
また、普段からネパールに関心を寄せてくださっていた多くの方々が、何の見返りも求めずに広報を手伝ってくださいました。長く親しくしているネパールの弟分で、〈非正常会談〉や〈私の友だちの家はどこ?〉などの番組で知られるスジャン・シャキヤ(Sujan Shakya)が参加し、プロジェクトの企画から締めくくりまで大きな助けとなりました。女優オードリー・ヘプバーンの息子でありオードリー・ヘプバーン財団の会長であるショーン・ヘプバーン(Sean Hepburn)さん、人気お笑い芸人イ・グクジュさん、アルムダウンコーヒーの広報大使であるミュージカル俳優キム・ホヨンさん、歌手チョ・ジョンミンさんなどが直接応援してくださいました。
「人生初の砂漠マラソン完走のための地獄のトレーニングを始める」
多くの方々の助けでプロジェクトが進行する間、私は本格的なマラソンおよび体力トレーニングを始めました。実は私はかなり長い間ランニングを続けており、会社員時代も隙間時間を使ってストレス管理のために継続的に運動していました。しかし、生まれてから250kmという途方もない距離を走ったことは一度もなかったため、徹底的に計画を立てて準備することにしました。
まず基本的にほぼ毎日最低10〜20kmは走りました。走るのがあまりにも退屈で辛いときはサイクリングをしたり、ジムで筋力トレーニングをしました。マラソンが道路ではなく砂漠の上を走り、丘を上下するため、あえてでこぼこの砂利道を走ったり山を登ったりしました。毎日朝・昼・夜の3回運動し、8月の蒸し暑い天候の中で屋外を2時間走るのは本当に大変でした。
しかし気持ちは一番穏やかでした。私が練習するこの1分1秒、走る一歩一歩がネパールのためだと思うと、息が上がっても自然と笑顔になりました。私個人の夢はもちろん、第2の故郷であるネパールを助けられるという思いがあったので、つらくてもつらいと感じないほどでした。明確な目標のために日々汗を流していると、仕事のストレスで失って久しかった前向きな生活のエネルギーが燃え上がりました。こうして8月の1か月間で最低300kmを走りました。
「会社員ギャッパーとして、全額自己負担した砂漠マラソン参加費」
砂漠マラソンに参加するにはかなりの費用がかかります。大会参加費は400万ウォンに達し、南米往復航空券が200万ウォンは基本です。主催者が要求する各種装備を新たに購入すると100万ウォン以上かかり、南米でも物価の高いチリでの現地滞在費も考えなければなりません。私自身はもともとマラソンや登山をする人だったので装備をすべて買う必要はありませんでしたが、航空券もマイレージを使って安くしましたが、それでも相当な費用がかかったと思います。
このため実は私個人へのファンディングも考えました。しかし私は生活が苦しい大学生でもなく、社会人としての2年間で節約しながら着実に貯めていたお金もかなりありました。さらにもともと私個人の夢を叶えるための挑戦として始めたプロジェクトだったので、参加費までファンディングで賄うのは適切ではないと判断しました。そうして挑戦に必要なすべての費用は自分で負担しました。
「ネパールとともに走った250km『Atacama Crossing』挑戦記」
すべての準備を終えた10月初旬、私は大会開催地であるチリのサンペドロ・デ・アタカマ(San Pedro de Atacama)に到着しました。そこで装備チェックとオリエンテーションを終えた後、翌朝に始まる大会に備えて用意されたバスに乗りアタカマ砂漠へ入り、その夜初めて砂漠の夜を過ごしました。皆が初レースのためにテントに入った夜、焚き火の前でぼんやり立っていたのを思い出します。退職してからここ南米の砂漠に来るまでの時間のことを考えながら。ところが正直少し驚きました。予想はしていましたが、砂漠の夜は韓国の冬と同じくらい寒かったのです。
翌朝、震える気持ちでチリ・アタカマ砂漠の真ん中に設けられたスタートラインに立ちました。ゴビ砂漠、サハラと並ぶ代表的な砂漠マラソン大会である『アタカマ・クロッシング(Atacama Crossing)』は、6泊7日間、生存に必要なすべての物品をリュックに背負って250kmを走らなければならない苦しいレースです。特にアタカマはほとんど雨が降らない、地球上で最も乾燥した砂漠として有名です。
「自分自身との闘いであった極限のレース」
スタートの合図が鳴ると、多様な国籍の約160名のランナーたちが歓声を上げながら砂漠へと駆け出しました。私も胸に付けた #I’M GOING TO NEPAL のワッペンを見つめ、堂々とレースをスタートさせました。砂漠マラソンはステージレースで、毎日決められた距離のコースを走り、ほぼ毎日フルマラソン(約40km前後)を走ると考えてよいでしょう。
しかし、実際に体験した『砂漠』マラソンは、通常のマラソンとは次元が違いました。問題はザックでした。食料や装備で重くなったザックを背負って走ると、みるみる疲労がたまりました。さらに余計な補食を持ちすぎたり、人より重い装備を持っていたため、私のザックは他の選手より3〜4kg重く、そのためレース開始から3時間で両肩が岩のように硬くなってしまいました。結果、完走に8時間以上かかった最初のレースは衝撃的でした。
2日目は氷のように冷たい小川を渡った後、火星のような赤い峡谷を抜け、巨大な砂丘を飛ぶように駆け下りました。ザックの重さは変わりませんでしたが、体が慣れてくるとレースのスピードは上がりました。比較的短い距離だった3日目には順位を上げたいという欲が出て少し頑張ったところ、158人中65位で速くレースを終えられました。持ってきた食料を食べるごとにザックは徐々に軽くなり、88位、75位と10位ずつ順位が上がっていくうちに緊張もほぐれ、レースを楽しめるようになったと思います。
「順位欲で揺れた第4レース」
しかし出過ぎた順位欲が災いを招きました。第4レースで60位以内に入るという目標を立て、最初からオーバーペースで入ってしまったのです。最初の10km区間は予想通り50位圏で到着しましたが、その後あまりに早く疲れてしまい、走れなくなってしまいました。気持ちは焦るのに脚が思うように動かない。とても気分が優れませんでした。
4日目のコースは、塩の結晶が岩のように硬くなって凸凹に突き出したソルトフラット(塩原)が大半でした。歴代の参加者の間でも通過が難しく『悪魔の爪』と呼ばれる悪名高い区間で、少しの不注意で足首を捻る可能性のある場所でした。しかし焦っていた私はここで足首をひどく捻ってしまいます。しかも同じような形で3回も。加えてその日は日差しがどれほど強かったか、昼頃にほぼ4〜5時間もの間、日陰のない同じ景色の塩原を歩き続け、軽い熱射病の症状で頭がくらくらし吐き気までしました。
それでもプロジェクトとネパールのことを思いながら耐えました。そしてようやく午後5時近くにゴールに入ると、すぐに日陰でしばらく横になっていました。後で知ったのですが、その日までにすでに20人近くの選手がレースを棄権していたようです。
「地獄のようだったロングデイ(Long Day)、諦めたくなった瞬間」
5日目は待ちに待ったロングデイでした。通常のレースの2倍にあたる74kmを1日で行く、砂漠マラソン最大の山場でした。私にとって最もつらい日として記憶しています。4日目の苦戦で左足首を含め体調が万全でなかったためです。加えて大会のために初めて買ったランニングシューズも少しおかしく、数日のうちに過度に擦り減ってしまっていました。するとレース開始から1時間ほどで、突然片方のシューズの靴底の一部が剥がれてしまうという愕然とする出来事が起きました。今思えばそれだけ『悪魔の爪』区間が厳しかったということなのでしょう。靴底がないことで両足のバランスが崩れ、捻った足首にさらに負担がかかり、急速に士気が下がりました。
歩いても歩いてもどうにもならず、レースを中断して他の参加者に見られないよう木陰に隠れて涙を流しながら苦しみました。本当に全身が痛くてつらくて、すべて諦めたくなりました。はるばる南米まで来て何百万もの参加費を払ってまで、なぜこんな苦労をしているのかという虚しさが押し寄せてきました。そうして30分ほど泣きじゃくった後、泣き終えると気持ちが少し楽になりました。
胸に付いた〈#I’M GOING TO NEPAL〉の文字とネパールの国旗を見ながら、24歳の若かった私を泣かせ笑わせてくれた2010年のネパールとネパールの人々を思い出しました。見返りを求めずに親切と愛を注いでくれたネパールの人々。いつも親切で正直、堂々として素敵な人たち。外国人の私にまず手を差し伸べ、偏見なく近づいて温かい笑顔で私を『ビジェイ』と呼んでくれた彼らの朴訥な顔を思い出しました。ネパールのために、続けなければなりませんでした。そのためにはランニングシューズをどうにか直す必要がありました。それで平たい石を一つ見つけて靴の中に入れ、片足を引きずりながら歩き始めました。すると天が味方したのか、歩いている途中で誰かの落ちた靴底を見つけました。(他の選手も同様の問題を抱えていたようです。)幸いその靴底を私のシューズの底に当て、他の選手からもらったテープでぐるぐる巻きにして、ある程度バランスを取ることができました。
それがたしか12時ごろだったでしょう。行くべき道は果てしなく続いていました。真っ白な塩の砂漠、足が深く沈む砂丘を越え、猛烈な風が吹く平原をひたすら歩き続けました。夜になると息が白く見えるほど急に冷え込みました。だからこそ立ち止まらずゴールを目指して歩き続けました。翌日の午前1時まで、合計17時間もの間、諦めずに耐え抜きました。
翌日の最終レースがたった10kmに過ぎなかったため、実際にはロングデイを終えればレースをほぼ完走したのと同じでしたしかしあまりにも疲れていてゾンビのような有り様で無言のままゴールに入り、テントに入るとすぐに倒れてしまいました。
「人生最高の瞬間の一つとなった砂漠マラソン完走」
7日目の10月10日、ロングデイの痛みもすべて忘れ、『もう終わった』という安堵の笑みで最後の10km区間を走りました。一度も休まずに走り切りました。結果、私は158人中73位で完走を果たしました。ゴールに入ると、一週間胸に抱いて汗と埃で汚れた〈#I’M GOING TO NEPAL〉のバナーを誇らしげに振りました。最後まで諦めずにネパールと共に砂漠を走り抜いた自分を誇りに思いました。胸が熱くなるという感覚がわかった瞬間でした。
「砂漠マラソン完走後5年ぶりに戻ったネパール」
砂漠マラソンを完走して帰国した後、マラソンの後遺症と疲労で1週間以上苦しみました。それでもネパールの妹スザンさんと一緒に『アラムダウンコーヒー』で行われた『あなたの一杯のコーヒー、ネパールのために』という募金活動に参加し、ネパール支援のための寄付金を集めました。こうして2か月間の募金が完了し、約1000万ウォンに達する基金が形成されました。基金は全額、支援パートナーである『アラムダウンコーヒー』を通じてシンドゥパルチョークの地震被災農家に届けられました。
そして12月中旬、「美しいコーヒー」(Beautiful Coffee)の支援で、夢にまで見たネパールを再び訪れることができました。2010年のボランティア生活を終えて去ってから5年ぶりのことでした。「美しいコーヒーネパール」(Beautiful Coffee Nepal)と韓国本社とともに行った今回の出張で、私は自分のプロジェクトが支援したシンドゥパルチョク(Sindhupalchok)の地震被災地を直接訪れ、住民と直接会いました。ジープで険しい未舗装道路をくねくねと登っていくと、村ごとに往復で2〜3時間かかるかなり厳しい行程でした。地震や土砂崩れによる破壊の跡は6か月が過ぎてある程度は癒えているように見えましたが、ところどころに残る倒壊した家や塀、そしていまだに一部住民が使用している国際的な支援団体のテントを見ると、やはり心が痛みました。
準備していったネパール語の挨拶で私と私たちのプロジェクトを紹介し、歓迎に感謝の意を伝えました。田舎の村の特性上、最初はみな恥ずかしがっていましたが、深い話ではないにせよいくつかの会話を交わしました。特に年配の住民たちは「支援金を集めるために走っている」ということをあまり理解していなかったものの、代わる代わる私の手を握って感謝を示してくれました。たくましくも優しい彼らの眼差しから、私も心の底からの感謝の気持ちを感じることができ、とても幸せでした。
また村のあちこちを回り、プロジェクトの支援で整備された菜園を見ることもできました。寒い冬を過ごす山村の住民にとって、ジャガイモ、大根、カリフラワーなどの野菜は頼もしい食料になるそうです。皆さんが寄せてくださった思いは、すでに実を結びつつある真っ白なカリフラワーとなって、地震被害にも負けず生活を続けるネパールの農民たちに大きな力を与えていました。私たちをあちこち連れて行って菜園を紹介してくれた彼らの熱心な姿を見ると、私も誇らしく、そして感謝の気持ちでいっぱいになりました。受けた恩恵ほどではないにせよ、私が愛するネパールのために自分の才能を活かし、プロジェクトを通じて彼らに少しでも役に立てたことがとても幸せでした。
"ギャップイヤーを過ごす前と後で変わったこと"
私は学校に通っていたころ、前向きで大きな夢を持つ人間でした。自分の能力と可能性を信じていました。だから一生懸命やれば幸せになれるだろうと考え、最善を尽くして努力してきました。そうして努力して入った会社での生活の中で、私は次第に小さくなっていきました。夢見ていた職場。ここに入って一生懸命働けば幸せになれると疑いなく信じていましたが、現実はそうではなく、挫折感が大きすぎました。朝から深夜までパソコンの前で自分に自信の持てない仕事をしている自分は、オフスイッチの壊れた機械のようでした。実際、多くの韓国の若者が決められた社会的期待や人生の軌跡の中で、私と似たような挫折を経験します。しかし現実という壁にぶつかり、将来の計画や周囲の目のために別の選択肢を考えにくくなるのです。私もまた、退職する約1年ほどはそうした悩みの中で苦しんでいました。
三十歳、就職の難しさ、愛する家族や彼女への申し訳なさ……見えない退職後の未来は本当に怖かったです。それでも、違うものは違うのです。間違っているものは間違っているのです。意味のない会社生活に終止符を打ち退職を決行したとき、深く考えてはいませんでした。ただこれ以上不幸でいたくなく、手遅れになる前に失いかけている自分自身を取り戻したかっただけです。
そうしてギャップイヤーを選び、ネパールのために砂漠マラソンを走りました。かなりの資金を無事に集めることができ、地震で傷ついたネパールの人々に小さいながらも意味ある支援をすることができました。仲間たちと小さなアイデアをプロジェクトとして企画し、250kmという過酷な砂漠マラソンを完走し、それを第二の故郷ネパールへ寄付した「ネパールのために砂漠を走った青年、パク・ヨンジュン」。今ではその自分自身に対する確信が生まれました。たとえ通帳の残高があまり残っていなくても、「競争」や「スペック」、「夕食のない生活」の中で失った「自我と自尊心」を取り戻せたことだけで十分だと思います。履歴書に残る約1年の空白はまったく惜しくありません。
"ギャップイヤーを計画している韓国の若者たちへ伝えたい一言"
どんな理由であれギャップイヤーを計画しているすべての方を応援します。ただしその方法については真剣に考え、決定してほしいと思います。実際、何をするかはそれぞれ望むことが違うため、どれが正しいということはないと思います。しかし単に「これを一度やってみよう」という程度の考えで行うなら、単なる「スペック稼ぎ」よりも価値が低いと私は考えます。
なぜ自分がギャップイヤーを取るのか、ギャップイヤーの間になぜこれをしなければならないのか、そしてこれを通して何を達成したいのかという明確な目標意識と計画が必要だと思います。そしてやるなら、可能な限り最善を尽くすべきです。無闇に「努力しろ」という意味ではありません。例えばもし「ゆとりを持って将来を設計する」ことが究極の目標であれば、その計画に従って最善を尽くして「ゆとりを持つ」べきです。どんな計画であれ、目標があり、その目標を達成するために使われるギャップイヤーであってほしいと思います。(また可能であれば、それが社会や公益のためにもポジティブな効果をもたらすなら、これ以上望むことはないでしょう。もちろん必須では決してありません。)
私は特別な人間ではありません。(客観的に見て、私は現在「無職」です。)そして実際、私は非常に現実的な人間です。今この瞬間もどうやって生計を立てるかを考えています。だから「あなたが今していることは意味がない。やめて本当の夢を探しなさい」といったおこがましい言葉を言いたくはありません。ギャップイヤーをするかどうかは徹底的に自分の判断と決定に依存すべきであり、その責任は本人が負うべきです。「今すぐ学校も仕事も全部やめて世界一周しなさい」と助言することは本当に無責任だと思います。この文章を読んだ方が「おお、これはかっこいい、私も砂漠マラソンに挑戦してみよう」と考えることも望んでいません。自分自身に対する痛みを伴う内省や長い悩みなしに、他人がやっているからという理由で何かをするなら、ギャップイヤーが終わっても何も変わらないでしょう。
砂漠マラソンを走るときに最も心の支えになるのは、一緒に走る仲間たちです。彼らはライバルであると同時に最も頼もしい支援者でもあります。難しい決断を応援します。私もまだ「現実」というレースを共にしている仲間として、皆さんをいつも応援します。ありがとうございます。
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